山本浩輔奮闘記

考えをつらつらと。頭でっかちな学生ですが、自らの意見と日々の行動を記録してます。

水戸について

水戸に行ってきました。(3週間ほどまえ)

その時の印象を書きます。

 

訪問地

水戸城址、裏手の神社、弘道館、大工町、水戸芸術館紀州堀、松陰神社偕楽園、水戸歴史資料館、湖、牛久大仏

水戸は徳川御三家水戸藩があった由緒ある城下町。
現在も空堀になっているとはいえ堀が残っているほか、弘道館後やクランク状の道など、城下町の痕跡を残している。
加えて水戸光圀大日本史を編纂するなど、徳川幕府の学問的拠点として、教育環境が発展していた歴史を持つ。

しかし歩いた印象だと、若者向け、現代向けのレストランや店が少なく、活気がない。
よく言えば昔の店が残っている(そして空き家も多い)、悪く言えばかつて栄えたが、現在は時代から取り残された街という感じがした。
サントピアというファッションビルも解体工事の最中だった。このビルは若者のファッションの発信地として、かつては非常に活気があったという。特徴的な外観からその様子が偲ばれる。

それも古き良き昔の伝統を残している鎌倉、京都、金沢のような街ならまだしも、空襲で街が壊滅的被害を受けたこともあり、観光資源も少ないただ寂れた街になってしまっていると言える。学校は駅近くにいくつかあり、学生は一定数いるはずにもかかわらず、「老いた街」と言えるかもしれない。
先日旅行にいった福井の街などは、同じく空襲で多くの被害があり、観光資源も乏しいのにもかかわらず、若者も多く、活気があったことと比べても、この水戸の現状は寂しいことである。

そのようになった要因を勝手に推測すると、水戸駅周辺は目の前に河岸段丘があり、(山を防御とした)平山城とも言える水戸城が建てられるほど地形的にも高低差が大きく、どうしても移動に不便を感じざるを得ない地形であるところにあるのかもしれないのではないかと思った。
そして高低差が大きくない駅南側ではなく、市役所、県庁やビジネス街などの中心部が河岸段丘の上にある北側に集中しているところも、その傾向に拍車をかけているのかもしれない。
さらに街の文化にも、原因を求めることができそうだ。幕府直結の弘道館の歴史から、右翼の活動が活発な土地柄であるとも聞く。地理的要因だけでなくこのような文化的要因も若者が近寄りがたい街の雰囲気を作り出してしまっているのかもしれない。
あと何もよりも工場や鉱山が撤退、閉山してしまったところも大きい。泉町周辺は歓楽街が立ち並ぶ地区だが、抜け殻になってしまっているのは、そこで働く労働者向けの店が客を失ってしまったからだろう。

いろいろ書いたが、偕楽園の眺めは素晴らしく、資料館に保存された明治以降の建物の数々や弘道館も、当時の教育文化を偲ぶ素晴らしい施設だと思う。
ぜひもう一度かつての学問の中心地、若者文化の発信地としての力を取り戻し、復活してほしい。

かつて活気があった昭和の痕跡を多く残す寂れた街を見て、栄える街、廃れる街とは何かということを考えさせられた旅だった。

 

以上。