山本浩輔奮闘記

考えをつらつらと。頭でっかちな学生ですが、自らの意見と日々の行動を記録してます。

心理学

最近ハマっている本のジャンルは心理学。

自分の感情は予測不可能。

無意識に情けない行動に出てしまったり

怒り、嫉妬、劣等感、自己嫌悪

イヤーな感情はちょっとしたことでわき上がってきます。

そのときは盛り上がっていて正しく思えても、後から考えるとみっともないと

思ったりした例は、ありすぎて思い出すだけで恥ずかしさで

がーーーーーーってなりまする。

 

しかしどのようなときに

そのようなネガティブ感情が表出するのか、ということを知ることができれば

もっとうまくそれらの感情を前もって予測したり

それらの感情に捕われにくくなるのでは、と思うようになりました。

それ故に(己を知る為の)心理学を

今勉強中です!

 

今日紹介する本は「図解:やさしくわかる認知行動療法 著 福井至等」

です。

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4816352732/bookmeter_detail-22/ref=nosim?SubscriptionId=170JSBBNXFAZPE36Q782&tag=bookmeter_detail-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4816352732

 

この「認知行動療法」というのは何か、というと

自分が「これはだめだ。」「これはできない。」「おれはずっとこう(マイナスなこと)だ。」「こうなるかもしれない。」

という不安、劣等感、自己否定のゾーンに入って泥沼化したときに

どのように抜け出すか、という試みであります。

 

すごくざっくり言うと、

「ネガティブゾーンに入る自分のロジックは

思い込みにとらわれていることを、客観的に認識する」という手法です。

 

第一段階は

自分がそのようなネガティブゾーンに入る時には

必ず背景に、自分が作り出した「ロジック」がある。

まずそれを書き出して自己認識することから始めます。

 

例えば「オレは職場で嫌われいている」「オレは無能だ」と思う根拠には

「職場で挨拶してもだれも返事しない、誰も自分と食事に行こうとしない」

ということや

「前回失敗したから、また今回もうまくいかないに決まっている」といった理由付けが

背後にあるわけで

まずそれらの根拠を書き出すというわけです。

 

第2段階として

根拠を認識した上で、

そのような根拠がどれだけ確実なものか、ということ客観的にみて

自分で反証してみる。

 

というプロセス。

(簡単にいうけど、反証するのって結構難しいと思う笑。何しろ強く思い込んでいるんだからね。)

 

この本で特に面白いなと思ったのは、

思い込みになる根拠も、6つのカテゴリーがあるらしい。

 

1全か無か思考(60だめだったら100だめだと思う。)

2一般化のしすぎ(一つの例で全ての例を定義付け。(気になる女性にメールを送ったが、返事がない=自分をすきになる女性なんて、どこにもいない。一つのうまくいかなかった事象で絶望する。))

3マイナス化思考(今日は夫との会話が全くなかった、上司に声をかけられなかった=仲は冷え切っている。私への関心を完全にうしなったのだろう。一つのマイナスかもわからないような曖昧な現実を、マイナスなものだ評価してしまう。)

4未来への決めつけ(どうせよくならない。未来と過去は状況が(100%)違うので決めつけるのは間違い。)

5すべき思考(相手に「こうするべきだ」「こうあるべきだ」という期待を抱いているのにもかかわらずそれに相手が従わない。相手はコントロールできませんよね。)

6個人化(自分に関係のないことまで自分のせいにする。津波が来たのはあなたのせいじゃないです。)

 

一つの例があったのでここで紹介

 

「私には結果など出せず、上司に叱責されてしまうだろう。」と考えていたとき。

 

根拠は「成果を出せず、月末に厳しく叱られている先輩が何人もいる。私がそうなる可能性は十分にある。」

 

反証は「始まったばかりなのにやる前から結果が出ないと決めつけるのは、結論の飛躍。結果を出すための方法がわからなければ、誰かに相談するなどして方法を考えれば良い。上司に叱責される結果になったとしても、それですぐに首になるわけでも、人生が終わるわけでもない」

 

 

というような感じだそうです。

 

この本を読んで

悩んでいる人、こじらせている人、

思い込みフリーな生活へ一緒にトライしてみましょう!!

 

 

読書記録

さて読書記録を書きます。

 

今日は「川はどうしてできるのか」

 

https://www.amazon.co.jp/川はどうしてできるのか-ブルーバックス-藤岡-換太郎/dp/4062578859/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1472399426&sr=1-1&keywords=川はどうして

 

という本を紹介します。

 

川って不思議だと思いませんか?

私は不思議だと思ってました。

だって川のはじまりは、小さな流れだというじゃない。

だとすると川に供給される水の量はほんの僅かなはずなのに、

下流域は大きな流れになりますよね。

なぜだろう?って疑問だったんですね。

他にも、川ってどうやってはじまるのか、などなど

川はさも当然のように流れでていますが、その存在は謎に満ちていると思うのです。

 

この本はそれらの疑問に答えてくれました。

が、起源を探る手掛かりとなる地表が風化したり、海の下

にプレートの動きで沈んでしまったりして、

やはり人間の分際では川の起源について完全には理解し難いようです。

 

 

細かい情報は割愛しますが、

川さえも、かつての超大陸の影響を受けていること、

あらゆる川は川底を浸食し、かつ海に流れ出ても川の流れは終らないことが

面白いと思った点。

 

まあ、なんの役にも立たない雑学がまた一つ増えた、といったところです

 

以上

読書記録

お休みが長くなりました。

 

一か月40冊計画を勝手にぶち上げましたが、

今現在一か月前(7月24日)から今日まで65冊読破成功!

 

本を読みまくる毎日でした。

社会人になったらこんなことできないだろうなあ、という強迫観念がモチベーションです。

この一か月は人と会わない刺激のない日々でしたが、脳みそはフル回転してました。

 

これから暇な時に印象に残った本について書いていきます。

 

第一号は「木を見る西洋人、森を見る東洋人(リチャードニスベット著)」です。

 

この本は面白い。

著者曰く

東洋人は関係性を重視し、西洋人は個別の特徴を重視するとのこと。

例えば、東洋人はものとものを関係として捉えて、「牛の仲間は草」、または「世の中は複雑で、人も接する人によってその性格が変わる」、と考えがちらしい。

一方で西洋人は、人は人、ものはもの、であり、それは独立して定義づけられると考える。つまり「牛は馬の仲間、であり、「人はいろいろな人と接しても結局本質は変わず常に同様の特徴が存在する」、と考えるということである。

これらの命題が、様々な事例や実験結果を通して証明される。

これを読むと東洋人も西洋人も自分の思考的枠組みから外れてものを考えると、

視野が大きく広がり間違いなく発展すると思った。と共に、この違いを認識することで言語学習においても役に立つんじゃないかな。

面白くてニヤツキながら読んだ本でした。

 

色々おもしろい本を読んだので、また今度報告します。

 

P.S旅行紀は柄に合わないことがわかったので、もっと自分ができる最小限の記録を付けようと思います。ちょっと力み過ぎた。

決意

なんかだらだら日々を過ごしている気がする。

死ぬ気でやならいと。

 

ということで、今読みたい本が山ほどあるので読書頑張ります。

社会人になったら仕事関連以外の書籍を読むつもりはありません。自分で本に頼らずに頭を使って仕事をしなければならないからです。

となると、今本を死ぬ気で読んどかないとだめだよね。

一か月40冊目標、頑張ります。

金沢

これからこの一週間で回った街について書く。

金沢(1日目)
近江市場、東茶屋、兼六園、伝統工芸品館、金沢城21世紀美術館鈴木大拙記念館、本多美術館、歴史博物館、県立美術館、尾山神社、老舗博物館、武家屋敷、足軽美術館、西茶屋

朝早くに到着、近江市場まで散策。市場はまだ開いておらず、働く人々は1,2時間後の客が集まる時間帯に向け、魚を並べたり、値札をつけたりする作業で忙しくしていた。
市場を通り抜け東茶屋までいくと、まだ誰もいない。ここは街道から金沢に入る人々がまず休息する宿場町、花街として栄えた場所である。浅野川からみた、橋と川沿いの住宅が並ぶ様子は情緒がある。
印象的だったのは、渋い紅色の町屋の二階部分の引き戸の装飾性の少なさだ。
その装飾の少なさが町屋に並んでいるので、均整がとれていて非常に美しい。紅色のおかげで、街全体が花街らしく、華やかな印象を受けた。
そのあと兼六園に向かう。灯篭からの庭園の景色が有名だが、それ以上に枝を大きく広げた力強い数々の松が印象的だった。

兼六園とつなぎになっている伝統工芸品館には驚いた。金沢を地方都市の一つとしか見ていなかったが、京都に負けずとも劣らないほど洗練された工芸品の数々が並ぶ。加賀友禅、輪島塗、九谷焼、などなどその数は地方都市と言えないほど豊富である。加賀百万石の力をまざまざと見た感がある。

 

かつて金沢城兼六園を隔てていた堀を渡り、金沢城へ。櫓が白く眩しささえ感じる。奥に入ると100間櫓と呼ばれる再建された櫓が目に入る。「美しい」という言葉がぴったりである。今まで数々の城を見てきた自分ではあるが、これほどまでの美しさを持つ城を見たのは初めてである。シンプルでありながら、優雅さを感じる。さらに「白さ」が清純な雰囲気を醸し出している。

石垣も興味深い。大抵の城郭は、石垣の石組みの方法は統一されているものだが、この城は何しろ3種類もあり、前田利家の時代から、明治維新まで引き継がれた石垣の時代の変遷を楽しむことができる。訪問者に外国人が多いのにも驚いた。金沢まで足を延ばしている人々は、もう京都などの街はあらかた回ってしまったベテランビジターなのかもしれない。

そして金沢は現代でもアートの発信地であろうとする気概を持つ街でもある。次に訪問した金沢21世紀美術館では、最新鋭のアートに触れることができる。正直いって全く理解できないもの(抱き枕が糸に引きづられて地を這う展示が最たるものだった)が多かったが、地域の伝承をフエルトで表現した一連の展示が興味深かった。そのなかの話で印象的だったのが、貧しいのにもかかわらず、子供が増えすぎてしまいこれ以上養うことができない状況に追い詰めれた妊婦が、柿の木に登り、枝が折れるのを待ち、落下した衝撃で流産をするという話である。一昔前の日本の地域で起こされた悲劇の一つだろう。


今日はここまで。次からは鈴木大拙記念館から書く。


水戸について

水戸に行ってきました。(3週間ほどまえ)

その時の印象を書きます。

 

訪問地

水戸城址、裏手の神社、弘道館、大工町、水戸芸術館紀州堀、松陰神社偕楽園、水戸歴史資料館、湖、牛久大仏

水戸は徳川御三家水戸藩があった由緒ある城下町。
現在も空堀になっているとはいえ堀が残っているほか、弘道館後やクランク状の道など、城下町の痕跡を残している。
加えて水戸光圀大日本史を編纂するなど、徳川幕府の学問的拠点として、教育環境が発展していた歴史を持つ。

しかし歩いた印象だと、若者向け、現代向けのレストランや店が少なく、活気がない。
よく言えば昔の店が残っている(そして空き家も多い)、悪く言えばかつて栄えたが、現在は時代から取り残された街という感じがした。
サントピアというファッションビルも解体工事の最中だった。このビルは若者のファッションの発信地として、かつては非常に活気があったという。特徴的な外観からその様子が偲ばれる。

それも古き良き昔の伝統を残している鎌倉、京都、金沢のような街ならまだしも、空襲で街が壊滅的被害を受けたこともあり、観光資源も少ないただ寂れた街になってしまっていると言える。学校は駅近くにいくつかあり、学生は一定数いるはずにもかかわらず、「老いた街」と言えるかもしれない。
先日旅行にいった福井の街などは、同じく空襲で多くの被害があり、観光資源も乏しいのにもかかわらず、若者も多く、活気があったことと比べても、この水戸の現状は寂しいことである。

そのようになった要因を勝手に推測すると、水戸駅周辺は目の前に河岸段丘があり、(山を防御とした)平山城とも言える水戸城が建てられるほど地形的にも高低差が大きく、どうしても移動に不便を感じざるを得ない地形であるところにあるのかもしれないのではないかと思った。
そして高低差が大きくない駅南側ではなく、市役所、県庁やビジネス街などの中心部が河岸段丘の上にある北側に集中しているところも、その傾向に拍車をかけているのかもしれない。
さらに街の文化にも、原因を求めることができそうだ。幕府直結の弘道館の歴史から、右翼の活動が活発な土地柄であるとも聞く。地理的要因だけでなくこのような文化的要因も若者が近寄りがたい街の雰囲気を作り出してしまっているのかもしれない。
あと何もよりも工場や鉱山が撤退、閉山してしまったところも大きい。泉町周辺は歓楽街が立ち並ぶ地区だが、抜け殻になってしまっているのは、そこで働く労働者向けの店が客を失ってしまったからだろう。

いろいろ書いたが、偕楽園の眺めは素晴らしく、資料館に保存された明治以降の建物の数々や弘道館も、当時の教育文化を偲ぶ素晴らしい施設だと思う。
ぜひもう一度かつての学問の中心地、若者文化の発信地としての力を取り戻し、復活してほしい。

かつて活気があった昭和の痕跡を多く残す寂れた街を見て、栄える街、廃れる街とは何かということを考えさせられた旅だった。

 

以上。

何がルノアールを偉大にさせているのか

二日前ルノアール展にいきました。

忘れないうちに書く。

 

やっぱりいい。

まず構図。ダンス躍っているやつとか、ムーランドラギャレットとか人が目を惹かれるポイントをよく考えているのが伝わる。

あと色彩。陰の部分とかを細かく見ると、変な色しているなと思うのだけど、それを広い視野で見ると、何とも言えない他にはない味わいを生み出していることに気付く。

 

唐突だがこの展覧会を見て思うに、普遍性がある表現こそが最もすばらしいものだと思う。

それも「時代を超えた」普遍性。(時代を超えられないのは単なる流行)

普遍性がある=「人間の心理や感覚のマジョリティーを良く分析し、それに正面から対峙してそこに訴えかけることに成功した。」ということ。

そのためには、本当に良く良くどのような表現をするべきかについて考えなければならない。

奇をてらった表現や、時代のニーズにこびて受けを狙った表現は、そのときもてはやされても、表現者と全く関係のない後世の人間(つまり冷徹にその表現を評価する者)は「何が面白いのかが理解出来ない」となって忘れ去られ、切り捨てられる。
皆自分たちの時代のものを見るのに忙しく、よほど素晴らしいものでないかぎり、昔のものを振り返る余裕はないのだ。

 

ルノアールはもうその作品が創られてから百年以上たつのに、未だに人々を魅了している。

 

しかし彼は「完全に」オーソドックスであったわけではない。

まるでスポットライトがあたっているかのように綺麗に光が当たっているところは明るく、当たっていない所は暗く、という伝統的な技法ではなく、
(少し乱暴な言い方をすると)実際の世の中の光の当たり方をピントがあわないような「印象チック」に描く、ということにチャレンジしている。

つまり「普通ではない」のだ。

 

一方で異端になり過ぎてもいない。

印象派の限界を感じ、自分の表現を模索し続けた、と説明に書いてあった。

つまり「方法」ではなく、自分の目指す「価値観」に忠実だった。

そしてその「価値観」は、昨今までつづく人気を鑑みると、かなりオーソドックスだったのではないかと思うのである。(例えばキリコとか、マグリットとかと比べるとね。主観的に。)

 

つまり時代を超える普遍性には「オーソドックスであり、しかしありきたりではないもの」という非常に高度なバランス感覚が求められるのではないか。そしてそのバランスを実現することこそが知恵であり、それを実現出来た人間が少ないからこそ天才と呼ばれるのかもしれない。

 

何かとりとめないけど、結論として時代を超えて普遍的なものこそ人間の知恵が詰まっているのではないか、と思った次第です。

もっとうまく言い方をまとめられたらいいんだけどね。

 

あと今日甲府に行ってきました。帰りの電車で書き始めたんだけど、少し力み過ぎて字数が多くなりそう。

(誰も読んでないかもしれないから、謝ることは意味ないかもしれないけど)すんません。あと堅い話が続いてごめん笑